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「農作業着・たつけを蘇らせた石徹白洋品店が考える、地域に根ざしたのものづくり」||平野馨生里 /石徹白洋品店店主

2022.09.11|コラム

 

──失われゆく伝統を復活させるのは森本さんの取り組みとリンクしますね。

 

「でもこの先10年、20年と水うちわを生産し続けるには美濃の和紙職人や竹骨を生産する人の存在が不可欠。つまり岐阜の山間部で暮らせる環境がないと生産が途絶えてしまう。実際、過疎化が進んでいるのが現実で…」

──そもそも人がいないと伝統工芸は続かない…。

 

「そうなんです。生活の基本である衣食住、健やかに生きるために必要な教育や福祉、生活を支えるエネルギーを地域で担わないとお金も人もどんどん県外に出ていくことに気づきました。そこで行き着いたのが『水力発電』です」

 

──なぜ「水力発電」というテーマに興味を持ったのでしょう?

「私たちの生活にエネルギーは欠かせませんよね。岐阜は水が豊富なので可能性を感じ、さまざまな地域に提案する中で興味を持ってくれたのが石徹白の人でした」

──そこで石徹白と出会うんですね。

 

「はじめて訪れたとき、ピンと来たんです。豊かな自然、誇りを持って生きる石徹白の人の姿…すぐここに住みたいと思い通うように。当時、共に活動していた夫・彰秀さんと結婚し、2011年の秋に移住してきました」

 



「たつけ」との出会いは意外なところに

かくして石徹白に移り住んだ馨生里さん。水力発電プロジェクトは夫・彰秀さんがメインで進めることになり「石徹白だからできる仕事を」と始めたのが服でした。でも今までファッション業界にいたことも、服を作ったことすらなかったというから驚きです。

「実はミシンを踏めば壊すくらい不器用だったんです(笑)」

 

──えー!意外です(笑)それでも服を作ろうと考えるのは面白いですね。

 

「水力発電もそうでしたが、若い頃に自分から一番遠いことからやればどうにかなるという感覚があって。得意なことはいつでも挑戦できますから。衣・食・住と選択肢を並べた時、苦手なのは『衣』だからこそ挑戦しようと思いました」

「あと石徹白に唯一ある縫製工場の方がとても朗らかで。他にも手先が器用な方がここには何人かいらっしゃるので一緒に仕事をしたいという気持ちもありました。雪深い場所だからゆっくりものを作るのにもぴったりですし」

 

服飾の専門学校へ通い、2012年に石徹白洋品店オープン。その時点でたつけという商品はまだ存在していませんでした。馨生里さんとたつけの出会いはひょんな所から。

 

「カンボジアでお世話になった森本さんがきっかけです。お店がオープンした時に石徹白に遊びに来てくれて、この地にまつわる古いものを保管している『古い物資料館』にお連れしたんです。飾ってあったたつけを見るなり『これはすごい。君はたつけを作るべきだ』って」

──すごいです!当時、石徹白でたつけを履く人はいたのでしょうか?

 

「いや、あくまで昔の農作業着で日常的に着る人はほとんどいませんでした」

 

──そこからたつけ復活に向けて進んでいったのですか?

 

「はい、石徹白に昔から暮らしているおばあちゃんの元へ通い、一から仕立て方を教えてもらいました」

 

──馨生里さんはたつけをひときわ大事にしている印象を受けます。

 

「未来に誇れる服です。型紙が直線で作られていて、無駄な布がほとんど出ませんし、パズルみたいに布を組み合わせてまっすぐ縫うのに動きやすくて機能的。履き心地も本当に良いんです」

──直線裁断・直線縫いの服は珍しいのでしょうか?

 

「一般的な洋服はカーブで裁断することが多く、完成品と同じくらい布を捨てるそうです。うちはアパレル出身のスタッフが多いんですけど『たつけは布をほとんど捨てないから心地いい』と口を揃えます」

──なるほど、じゃあ無駄を削ぎ落とした服なんですね

 

「昔の人が少ない生地で動きやすさを考え尽くした結晶のような服です。今の時代に復活させるべきだと強く感じました」

 

馨生里さんがたつけを教わったおばあちゃん・石徹白小枝子さんにその頃のお話をちょっぴり聞かせてもらいました。

 

「たつけの作り方を習いたいって言われたときはそりゃあうれしかったがね。作業着に花が咲いたのは馨生里さんのおかげ。ほんで、私も作り方をよう覚えとったなあって思うんよ(笑)寸法も何もかも覚えとった。ずっと作ってなかったのに手が勝手に動いたんよ」

 

 

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Credit
Photo&Text_Nao tadachi