縄文から続く石徹白の“精神”を残したい
彰秀さんは、石徹白に古くから育まれてきた文化を礎に、地域に合った循環の仕組みとして水力発電を導入し、石徹白の人が持つ精神性を未来へつなぐ活動をしています。その原点は幼い頃遊んでいた田園風景が次々と開発されていく様に疑問をいだいたこと。
「長良川に河口堰が建設され、田んぼはいつのまにか郊外型のお店に変わりました。親は『便利になった』って喜んでいましたけど、僕は疑問だった。自然と都市開発のバランスをどう図ればいいか知りたくて大学で都市計画を学びはじめました。その授業でまちは誰かの意志のもと生み出されることを知ったんです」
──まちづくりに人の意志が関係しているということですか?
「たとえば横浜の例でいうと、米軍に接収されて衰退していた関内地区を復興するために、横浜駅周辺とつなぐみなとみらい地区の構想を描いたり、首都高を地下化するなど、グランドプランを描き実行した人がいた。誰か思いを持った人が動けば、まちの将来は変わりうると思ったんですよね」
せっかくなら日本の田園風景を残したい。せっかくなら一つの地域に深く根ざしたい。そんな思いを抱きながら東京で就職。商業施設のプロデュースや経営コンサルタントとして経験を積む中、転機は不意に訪れました。
「たまたま勉強会に行ったら岐阜出身の学生と出会って。話をよく聞いたら『岐阜を盛り上げたい』と。だから一緒にまちづくり団体を立ち上げました。そこから岐阜の郡上に通い田んぼを手伝ったり林業体験をする中で人に惹かれていったんです」
──なぜ郡上の人に惹かれたのでしょう?
「地に足が着いた人たちだなと思いました。その人は僕が子どもの頃、違和感を覚えた長良川の河口堰の反対運動をしていた人。でも反対運動で終わるのではなく、現実として受け止めながら農地を都会の人と維持する活動をしていたし、実際、影響を受けた人がどんどん移住していくのを目の当たりにして。かっこいいなあって」
──理想を語るだけでなく行動に移していたんですね。
「一方、郡上の人口が減っているという話も耳にするわけです。次第に自分たちに何ができるんだろうと考えはじめました。そんな時、水力発電に取り組むことが解決の糸口になるかも、と仲間内で盛り上がりました」
──なぜ水力発電に注目したのでしょう?壮大なテーマにも感じます。
「もともと昔は各地域でエネルギーも食材も自給していました。でも高度成長期以降、お金を出して外から買うライフスタイルが当たり前になり、人もお金も都市へ流出。結果的に地方は過疎化が進みました」
──そうですよね。
「じゃあ逆に地域でエネルギーを生み出すことができれば、地域に人やお金が戻るきっかけになるかもしれない。郡上は水が豊富なので水力発電だ、と。その提案をいくつかの地域に投げかける中で意気投合したのが石徹白の人でした」
──そこで石徹白と出会うんですね。
「はい。実際、石徹白は特に過疎化が進んでいて、地域の方も危機感を抱いていました。昭和初期に1,300人いた人口が当時270人まで減少。半数が高齢者で当時の小学生は全校で12名。でも石徹白って縄文時代から続く集落なんですよ」
──縄文時代から!
「隣の集落まで12kmも離れていて、ある種閉ざされた場所だからこそ、石徹白ならではの文化や精神が令和の今も残っているんです。僕はそんなに長く続く石徹白がここ50年の社会変化で衰退を余儀なくされているとしたら、今の時代がおかしいように感じました。だって長く残ってきたのは人間が暮らすのにふさわしい証拠だから」
「あと、僕は石徹白の人がこの地で長年受け継いできた価値観にすごく共感していて」
──どんな価値観ですか?
「“源”を認識していること。自分の命がどこから来てどこへ繋がるのか。水は山から流れ、野菜は土から育つ。言葉にするとなんてことないけれど、現代はそれを実感しにくい世の中になっています。根本的なことを理解している石徹白の人から学べることがたくさんあるし、石徹白ならではの価値観を受け継ぎ、未来へ残したいと強く思いました」
そうして彰秀さんは東京の会社を退職。2008年に岐阜市へUターンし、2011年に石徹白に移住。本腰を入れて水力発電プロジェクトに取り組みはじめました。