──能古島ではどんな活動をされていますか?
「地域の有志が集まった「能古島みらいづくり協議会」というグループの副会長をしています。私は建築家であり、都市計画やまちづくりへの見識があるので、その視点から地域の人たちの問題に対して具体的な策を提案したり、議論を促すような役割を担ったりしています。今一番問題とされているのは人口減少と空き家の増加。昔の田舎って親や祖父母世代も一緒に住んで大所帯だったのが、核家族化が進み、私の小学校時代と比べても島の子供の数はすごく減っているんです。前述で話しましたが、今は小規模特別転校制度というのがあって、福岡の市街地から子供を島の学校に通わせることがすごく人気。抽選になるくらいです。だいたい8割くらいが島外から来ているんじゃないかな」
「都市に住む子供たちにとっては楽しいと思うし、島に住む子供たちは都会の文化に触れ、交流できる機会を得られることで多様性を育んで寛容になり、将来の選択肢を増やすことができる。空き家の活用については、移住希望者の支援やマッチング、地権者との交渉、建物の賃貸化、危険な空き家の解体交渉など、なかなか一筋縄にはいかないのですが、できることをしています。実際に島へ移住を考えている人は、仕事に対して自由な選択肢を持っている人が多いという印象なので、ナレッジアイランドのイメージが具体的に湧いてきますし、そういう話が会話の中に出てくることもあります」
──能古島というちょっと特殊な島のイメージがだいぶ分かってきました。続いて水谷さんの建築家としての考えについて伺いたいのですが?
「私が一番よく言っているのは、都市的な視点を持った建築家でありたい、ということ。建築を点として見るなら、面である都市にもしっかり影響して行くような、広がりを感じさせる建築を設計することをいつも強く意識しています。建物は建つだけで公共性が高いので、一つの建築物が都市や地域にどんな影響を与えるかはすごく重要です。良くも悪くも建築は街を変える力を持っていると考えています。街をどのように変えて行きたいか、どんな街になって欲しいか、そこでどのような暮らしを実現したいのか、という視点を常に持ち、社会や地域を総合的に捉えて計画するように心がけています。またその一方で、自分の建てたものが社会に対して批評を持って少しでも影響を与え、社会をより良い方向に変えていくことに大きな憧れがあります。例えば私たちが普段使っているスマホでも、食器でも、そういう何か一つのものをデザインしたら、それが知らない誰かに届き、使う人の生活を変えていく。建築は流通に乗せることはできないけれど、小さな住宅一軒でも、社会全体の暮らしを豊かにしていく力を持っているし、そういう志で取り組んでいます」
水谷さんが手掛けた「島の家001」
──水谷さんが最初に設計した福岡のバー「ECRU」は、こぢんまりと室内に篭れる安心感がありながら、ガラス張りの壁で街と緩やかに繋がっている印象がありました。設計に関して他に心がけていることは?
「ヒアリングに重点を置いています。クライアントはクライアントなりに情報を集めて、あれこれ選択し、様々な要望がありますが、それだけではクリエイティブではないと考えています。私が大事にしているのは、例えば個人の住宅の場合、幼少期の体験だったり、大切にしている思い出の場所だったり、本人は気づいていないかもしれないけれど、潜在的に居心地がいいと感じている場所を探り出していくこと」
「企業の場合も、例えばどういう事業計画があって、何を目標としているのかなどを丁寧にヒアリングし、それを実現するにはどんな空間が必要なのか、対話をしながら深く掘り下げていく作業が重要です。そこがはっきりしていると最後までブレずに走れる。設計の中でも一番時間をかけるのは、実は図面を引くことではなく、引き始めるまでなんです。それができていれば、ディテールから全体まで一貫したコンセプトを貫けます」
──外への広がりと内への深掘り、建築家は両面に対して考えなければいけないのですね。では建築家的な視点で都市計画を考える場合、地域での循環経済について何か参考になるような例はないでしょうか?
テリトーリオという概念に学ぶ循環経済
「例えば「瀬戸内テリトーリオ」という概念があります。もともとこの言葉は、イタリアのテリトーリオを研究している近畿大学の樋渡彩先生から教えてもらった言葉です。簡単に一言で言うと、広域経済文化圏。テリトーリオとは地域を意味するイタリア語ですが、その土地の土壌など自然環境や、歴史、文化、伝統など、その土地らしい様々な側面を併せ持った意味合いがあり、経済だけではない地域の価値を高め、特定の地域を超えて都市と農村がバランス良く結びつくような概念です」
「70年代以降、都市の過剰な発展と農村の過疎が顕著となったイタリアで、見直されています。日本では地域というと、イメージしがちなのは行政区分の範囲内で、いわゆる地産地消と思ってしまうのですが、そうではなく、いろんな地域がその土地らしい、それぞれの得意分野を持ち寄り、それらが行政区分を越えて連携しながらネットワークで繋がっていき、広域な経済文化圏を形成するような関係。その中で瀬戸内は博多、大阪などの本州の都市と、小さな島々の農村が、船の行き来によって緩やかに繋がり、それぞれの良さを生かしながら、バランスよく豊かな経済文化圏を作ってきた歴史があり、大いに可能性を持っているエリアとして注目されています」
──現在の瀬戸内にも、テリトーリオとして学べることが多くあるのですか?
「そうですね。最近ですと福武財団(ベネッセグループ)が、瀬戸内国際芸術祭の運営や、様々な美術館を瀬戸内の島々に整備することで、一見、芸術をビジネスにしているようにも見えるけれど、最終的な目標は「海の復権」をテーマに掲げていることは興味深く感じます。瀬戸内の島々は、昔は重工業などで大きく発展しましたが、それらはいずれも廃れてしまい、産業廃棄物の不法投棄事件なども起こって、マイナスイメージが強くなっていました。そういった負の側面も受け入れ、例えば精錬所跡をそのまま残した形でアート作品の一部にするなど、今の時代に合う形として、プラスに再生しています。そういったアート活動が原動力となり、船が行き交い、外から来る人々と地域の人々が交流することで、お互いが刺激を受け、新しいエネルギーが生まれて活性化されることは大いに魅力的です」
──確かに、今の瀬戸内は明るく、いいイメージがあります。
「面白いなと思ったのは、例えば豊島美術館。建物ばかりが注目されがちですが、実は敷地内に棚田があって、そこもアートの一部という考えなんです。地域の人と一緒に学芸員が農作業もしているそうです。人間の暮らしも自然の一部であり、アートも農業も全てが繋がっているんですね。また、重工業が盛んだった時代は、海が汚染されてしまうのはもちろんよくないことですが、生活排水の一部には栄養として作用するものもあったようで、生物が育つ環境ができていたらしいんです。綺麗になりすぎた海では生物の多様性が担保されない。人間が出すゴミは一概にゴミとも言い切れず、自然の一部として循環の中に上手に取り入れてバランスを保つことはすごく大事だと思いました」